「あり方の仮説」
世界は見えない何かに規範され、ある物理法則や秩序の因果関係によって組み立っているように思う。しかし運命論のように世界のタイムラインは一直線上で成り立っているわけではなく、あらゆる因果の連鎖によって世界は常に激しくうごめいている。
世界を一元的に捉えないで、多元的に分岐したパラレルの一例として捉え、現実をあるあり方のモデルと仮定し、地続きの非現実と並走することで、世界にある見えない何かを映し出すことが出来ないだろうか。
以下、様相論理学による一例である。
例えば「雪男は存在しているはずがない」という主張は認識論的様相であり、「(これまでの情報からして)雪男が実際に存在するとは考えられない」という主張とみなしうる。
一方「雪男が存在することは可能である」という主張は、真理論的様相であり「(実際には存在しないのだが)雪男が存在することは可能である」という主張であると解釈することができる。
この二つの事例は前者が必然性を表す論理であり、後者が可能性を表す論理である。
前者に日常を当てはめてみると、後者は世界を多元的解釈により、不可能な事態を可能にする非日常性を孕む。
これらを僕の制作に置き換えて考えてみる。
日常的に慣れ親しんだ「もの」は、既にあるあり方を明確にアフォードしている。これは認識論的様相を代用する。
「もの」の必然的な命題を、ある暫定的な可能性の一例として捉えれば、物理法則や秩序から解放され、より多元的に操作を可能にするのではないだろうか。真理論的に「もの」のあり方を分岐させ、あり方の仮説の一例としての作品を提示していきたい。
01/19/2011 奥田栄希